森田剛の一ファンによる、戯曲「ビニールの城」感想

 

板の上に立つ、森田剛を初めて見た。

 

ここからはV6・森田剛さんのファンになって半年と経たないド新規ファンが、なんとか冷静を保とうと頑張るけれど全くもって確実に客観的に書けないだろうなという自信をもってお送りする、ビニールの城を観劇しての感想です。

 

また、今回戯曲・ビニールの城を演出するはずであった、演出家・蜷川幸雄のファンでもあるため、そのへん確実に内容に偏りが発生するかと思いますがお許しいただければと思います

j120plus0229.hatenablog.com

 

 

 

 


板の上に立つ、森田剛を、初めて見た。

 

今年の5月、彼の主演映画「ヒメアノ~ル」は観ていた。
その時の衝撃は色んな意味ですさまじかった。内容の凄惨さが甚だトラウマレベルだったということもあるが、それとはまた別で、私の中で永遠に輝いたまま止まっていた、アイドル俳優・森田剛を完全にブッ壊してくれた、そういう作品だったからである。

 

森田剛が役を演じるとき、そこから森田剛は完全に消える。
映画館でそれはもう、吐きそうになるほど体感した。

 

そして、「V6の外に出た、森田剛」を見るというのは、自分にとって、すごく特別なことだと思うようになった。私にとって、森田剛さんの基本は、「V6の森田剛」にあるので、意識していないとどうしても「6人が居て、上から4番目。カミセンのリーダー。メンバーに褒められるとやたらと照れる、V6の森田剛」として彼を捉えるし、「あー剛くんかわいい」「あー剛くんかっこいい」しか言えない頭のおかしいbotのようになってしまうのである。

 

なのでこの先、V6の外で仕事をする森田さんを見る機会があるならば、名だたる演出家にこの上なく高い評価を受ける「俳優・森田剛」の姿を、10年以上かけて彼が磨き上げ、築いてきた役者としての力と覚悟を、しっかりこの目に焼き付けよう、と思っていた。だから今回、意識しすぎじゃないのか、というほどに物凄く、とんでもなくスイッチを切り替えて臨んだ。

 

今度は映画ではない。舞台である。
舞台と映画の違いは多々ある。どちらが優れているとかそういう話ではなく、単純にまず、舞台には、カメラによる「寄り」や「引き」がない。観客に意図を届けたければ、自分で「寄り、引き」を作って、魅せなければならない。声色、声量、立ち位置、所作、表情。カメラの前の演技と板の上の演技では、ありとあらゆる要素が異なる。

 

これは完全に、生音の届く舞台が好きな一個人の所感だが、舞台で闘う俳優にとって、「声」は命だろう、と思っている。
劇場では、音圧が、とんでもなく直接に肌を震わせる。音響や劇中歌はもちろんだが、芝居中の役者の声そのものが、ガンガンと五感を刺激する。私がまさにそうなのだが、それを味わいたいと思ってチケットを買い、あの場所へ足を運ぶ人間は少なくないと思う。劇場の奥の奥まで伸びやかに通る朗々とした声は、それだけで観客を惹き付ける一要素になる。

 

スクリーンに映る森田さんの演技は、凄まじかった。それは分かっていた。
では劇場ではどうだろう、と考えたとき、私は勝手ながら、彼の「声」が心配だった。
決して滑舌が良いとはいえないだろう。彼の持つ、唯一無二のあの声が大好きだけれど、内にこもってしまうのでは。二階席、バルコニー、きっと立見の人もいる。奥の奥まで、届くんだろうか。数多の舞台で磨き抜かれた大女優、宮沢りえと並び立つなんて、めちゃめちゃハードル高くないか?

 

 

杞憂だった。
人形に話しかけている四畳半の光景がいとも簡単に目に浮かぶ、悲しいほどに湿度の籠った声なのに、こんなにも劇場の奥までしっかり届くなんて、と驚いた。
中日に差し掛かって枯れかかっていた声を、休演日で見事に戻して、夥しいあの長台詞を2時間5分、一度も噛まずに完璧に演じ切る彼に、度肝を抜かれた。泣きそうになった。
舞台上に推し並ぶ名優達と堂々渡り合う、才能を努力で裏打ちした本物の舞台人だと思った。

心の成長が止まってしまっている男の、繊細さと狂気とある種の幼さと、そのすべてを抱えた朝顔が、板の上に生きていて。
どれだけ取り繕おうと、「ここに居場所がない」と身体が言ってしまっている。それが森田剛の、舞台の上での何より得難い魅力なんだ、といっていた蜷川さん。
彼がその身に携えた唯一無二の疎外感は、確かに朝顔を形成する、大きな大きな一要素だと思う。ただ、本当にすごいのは、「今回初めて、唐さんの戯曲に触れました」という彼が、あれだけ見事に唐十郎の言葉を操って、あんな小さな身体で信じられないくらいのたしかな存在感を放って、ぐんぐんと戯曲を引っ張っていることだと思った。

野田秀樹さんは、「唐十郎の戯曲は、現代から失われつつある『詩』の世界だ」と言う。『詩』は文学でありながら、『絵』に近く、直感でつかむものなんだ、と。唐十郎のコトバを一瞬でつかみ、言葉に恋をし、好きになって、好きなように演じる。野田さんは、宮沢りえさんをその人だと評していたけれど、もしかしたら森田さんにもその素養があるのでは、と思ってしまう。森田剛の直感や感性が優れていると、惚れ抜いている欲目かもしれない。でも、人がどう化けるか、変化するかを見抜く眼力のある蜷川さんだから、森田剛に唐戯曲を演らせたら、こんな風に化けるんだって予想していたんじゃないだろうか、って。わからないけど。彼に朝顔を演らせたいと思った蜷川さんのその意図は、もう決して聞けないけど。

 

もう一つ、板の上の森田剛を目で追えば追うほどに、魅力的だと思ったこと。それは、この人は、本当に、圧倒的に身体表現に優れているひとなんだ、ということだった。

自分の身体の動かし方を、指の先から視線に至るまで、自分自身で熟知している人が舞台に立つと、こんな映え方をするのかと。舞台の上の俳優を目にして感じたのは、初めての経験だった。

感情を乗せて思い切り振り返るさま。空気銃でデンキブランが弾け飛び、さようならと告げられた後、言葉もなく視線と頭の動きだけで魅せる、絶望の表情。最高だった。
宮沢りえに、「蜷川さん、きっとこんな朝ちゃんが見たかったんだろうな」と言わせるなんて、とんでもない人だなと慄いた。

 


森田さんは、「蜷川さんが喜んでくれたらいい。どうか喜んでほしい」と思って演っている、といたるところで口にしていた。役を、作品を、芝居作りを楽しめている時、蜷川さんは喜んでくれる。だからまず、役を楽しむことが第一。公演が終わってから、蜷川さんへの思いと向き合うつもりです。とパンフレットでも書いていた。
千秋楽まで、残り一週間。終わった後、森田さんは、蜷川さんへ、何を報告するのだろう。


悩みの抱え方、教養の有無、他者への配慮。そういう人として真っ直ぐ生きていくための日常の小さな姿勢は必ず舞台に表れる、俳優ならそこからちゃんとやれ、という環境で育った蜷川さん。だからきっと演出家になった後も、根っこから俳優を育てる、という熱を持って、全力で俳優たちに向き合っていた。


「やっと会えたね」と言ってくれた人。
「こっちは一発勝負、ダメだったら再起不能になるくらいの気持ちでやってる」
「初日に何を言われても、俺が責任を取ってやる」
「お前、野ネズミみたいだな。俺、嫌いじゃないよ」
そう言って、笑ってくれた人。


いつも、孤独と向き合っているように見える。外と関わりを持ってはいるけれども、ふと見やるといつの間にか、彼と世間をさえぎる陰がかかって、シャドウの向こうでひとり、自分と向き合い、闘っているように見える。
自分や周囲の様々な感情に敏感で、繊細が故に怯えているようにも、確固たる己を持つが故に、孤立しているようにもみえる。どちらが本当の森田剛なのだろう。どちらも本当の森田剛なのかもしれない。

人間関係とは真逆。演出と役者の間では、相手のことが分からなければわからないほど、その引力が強くなる。パンフレットに寄せられていた吉田監督の言葉が、ただたまらなく、沁みてきます。
蜷川さんだけじゃない。いのうえさんや宮本さん、名だたる演出家があなたと組みたい、演らせてみたいと思う理由が、すごくすごく、わかったように思います。

 

蜷川さんはもう、いないけれど。
あなたに会いたい、芝居をさせたい、と思う演出家は、きっとまだまだ、たくさんいます。
舞台の上に立つあなたに、スクリーン越しのあなたに。会いたい人も、きっとこの先、まだまだたくさんでてきます。

 

俳優・森田剛の、さらなる活躍を、心の底から願っています。
俳優・森田剛にまた会える、次の機会を。心の底から、楽しみにしています。